文化薫る旧家の建築と庭園に触れ、緑あふれるカフェで憩う伊勢原の休日

大山の麓の、のどかな空気が漂う地に佇む「雨岳文庫(うがくぶんこ)」は、江戸時代から続く山口家により守り伝えられてきた、2万点に及ぶ歴史資料に触れられる場所です。建物の周囲には梅林が広がり、2月頃からは梅の花が見頃に。時期が合えば菜の花も咲き始め、あたりはやわらかな春の気配に包まれます。“知の時間”を堪能したあとは、緑あふれるカフェ「ノクターナル」でのんびりひと休み。歴史探訪とくつろぎという、伊勢原ならではのひとときを楽しめます。


大山を望む梅の名所としても名高い、築190年超の代官屋敷が残る歴史文化施設「雨岳文庫」

「伊勢原駅北口」からバスでおよそ6分。「〆引」バス停で降りて大山の方向へ歩くこと数分、手入れの行き届いた生け垣が見えてきます。江戸末期に建てられた国登録有形文化財「山口家住宅」と、約2万点におよぶ史料や什器類などの歴史資料(山口家文書)を伝える歴史文化施設、「雨岳文庫」です。

門をくぐった先に現れるのは、1834年頃の建築と推定される堂々とした一軒家。木造2階建て、片入母屋造りの建物は、正面に立つと写真で見る以上に迫力があります。もともと瓦屋根でしたが、関東大震災の際、瓦が落ちたことをきっかけにトタンに葺き替えられました。大正時代に輸入された貴重なトタンで、当時は非常に高価なものだったといいます。

「瓦は落ちましたが、建物自体はとても頑丈で、関東大震災でも大きな被害はなかったんです」そう教えてくれたのは、「公益財団法人雨岳文庫」の事務局を預かる田中さんです。

「こちらもぜひご覧ください」と案内されたのは、玄関の右手にあるガラス入り障子の空間です。一見すると大きな窓のようにも見えますが、実はれっきとした出入口。しかも、殿様のために設けられた特別な出入口なのだとか。ここは「式台」と呼ばれ、殿様が地面に降りることなく駕籠からそのまま屋敷へ上がれるように造られたものです。

ちなみに、「雨岳」という名は、この屋敷を守り伝えてきた山口家8代目当主・山口左七郎の雅号に由来します。「雨岳」とは、大山の別名である雨降山(あふりやま)を指す言葉。古くから大山詣りの旅人が行き交ったこの地で、「山口家住宅」は人々の往来を見守りながら、地域の歴史を今に伝えてきました。

1階の土間はおよそ20畳の広さ。天井板を張らず、太い黒松の桁や梁がそのまま見える造りになっています。とりわけ目を引くのが、40センチ角を超える見事なケヤキの大黒柱。現代ではなかなか目にすることのないほど立派な材が惜しみなく使われていて、ひと目見ただけでも思わず息をのむほどの存在感を放っています。

「実は20年ほど前まで、ここには人が住んでいたんです。かつては、近くにできたばかりの東海大学の学生の下宿として使われていたこともあり、建物の内部も現代風にリフォームされていました。でも、国の登録有形文化財に指定されている建物ですから、本来の姿をきちんと伝えていくことも大切だと考え、今は少しずつ当時のしつらえに戻す工事を進めているんです」(田中さん)

広間には、代官所で使われていた袖がらみをはじめとする捕り物道具や、水鉄砲などの火消し道具なども展示されています。これらの品々は、まさに“生きた歴史資料”。実物を前にすると、当時の人々の暮らしの様子がぐっと身近に感じられ、想像がいっそう膨らみます。

土間の奥へ進むと10畳の書院造の奥座敷があり、この部屋のさらに奥には代官所の役務室になる予定だった部屋があります。「予定だった」というのには理由があります。

もともと山口家は、ここから700メートルほど離れた石倉の地に屋敷を構えていました。幕末の1860年、領主であった旗本・間部(まなべ)氏の命により、その住居を現在の上粕屋へ移し、「地代官所」とする計画が持ち上がります。そこで行われたのが、建物を解体せず、そのままの形で引いて移動させる「曳家(ひきや)」という方法。1869年に実施されたこの曳家には、延べ930人、以降代官所への改築を含めると延べ2000人以上が関わったと伝えられる大事業でした。

ところが、途中で江戸幕府が瓦解し、代官所としての役割は失われてしまいます。そのため、この屋敷は山口家の住宅として使われることになり、今日まで大切に守られてきました。

代官所として使われることはありませんでしたが、建物の随所に格調高い装飾が数多く残されています。なかでも興味を惹かれるのが、奥座敷の襖に残る、女性解放運動の草分けとして知られる中島湘烟(しょうえん)の書です。さらに、中島湘烟の夫で初代衆議院議長を務めた中島信行が揮毫した扁額や、一枚板を切り込む透かし彫りが見事な欄間など、見どころは尽きません。一つひとつ丁寧に眺めていると、つい時を忘れてしまうほど。豪華な造りが、この屋敷の特別な成り立ちを静かに物語っています。

2階を設けているのも、この屋敷ならではといえるでしょう。これは領主であった間部氏の意向によるものと伝えられています。

2階の主室は数寄屋造りで、間部氏が休息の場として自らの思いを託したともいわれる空間です。窓からは大山を一望でき、静かな里山の風景とともに眺望を堪能することができます。丸窓の意匠も見どころのひとつ。緩やかな曲線を細やかに組み合わせた干し網に、長短の組子を巧みに配して表したたなびく雲の文様。軽やかで洗練されたそのデザインは、令和の今もなお斬新さを感じさせます。

障子の組子には、日本の香道から生まれた「源氏香の図」のひとつ、「蜻蛉(かげろう)」と呼ばれる香文様が表されています。香文様とは、香道で香りを聞き分ける遊び「組香」の結果を図案化したもの。線の組み合わせによって、さまざまな形が生まれます。そうした伝統的な文様を組子細工で表現している点にも、当時の職人の優れた技と美意識が感じられます。

なお、「山口家住宅」の主屋と離れの2棟は、1998年(平成10年)に国の登録有形文化財に登録されています。

「山口家住宅」の建築美に触れたあとは、「雨岳文庫」に残る貴重な史料にもぜひ目を向けましょう。

ここには、江戸から明治、そして近代へと移り変わる時代を伝える約2万点の文書が残されています。上粕屋村の地方史料や間部家の地代官史料のような、地域の暮らしを示す資料など内容は多岐にわたりますが、なかでも自由民権運動に関する資料は全国的にも有名です。住宅2階の一室には、文献をもとに調査研究を行う市民団体「雨岳民権の会」による年表や人物紹介のパネルも展示されており、当時の動きをわかりやすく知ることができます。

その中心人物として語られているのが、8代目当主・山口左七郎です。江戸末期から明治という激動の時代を生きた左七郎は、名主として地域社会を支えながら、自由民権運動にも積極的に関わりました。1881年には、相州で最初かつ最大といわれる民権結社「湘南社」の初代社長に就任。国会開設や地方自治の実現を目指し、講学会や集会を開いて人々と議論を重ねました。この屋敷もまた、そうした民権思想が語り合われた大切な場のひとつだったのです。

建物に残る歴史と、そこに保管された古文書の数々。両者が一体となって、地域の歩みと近代日本の転換期を静かに伝えてくれるのが、「雨岳文庫」という場所の大きな魅力ではないでしょうか。

毎年1月から3月にかけて見頃を迎える梅の花を目当てに「雨岳文庫」を目指すのもいいでしょう。屋敷の周囲に広がる梅林には、大山を背景に白や紅の花が咲き誇り、早春の里山ならではの風景に出会えます。植えられている梅の本数は、200本とも300本ともいわれていますが、実際のところ、正確な数はわからないのだとか。「よく何本あるのかと聞かれるんですが……。ただ、枝の剪定や実の収穫など、日々の手入れはみんなで一生懸命やっています」と田中さん。

梅林の足元には菜の花が咲き、隣には茶畑が広がります。ところどころにはミツバチの巣箱も置かれ、静かな里山の中に多様な命が息づいていることを感じさせてくれます。

現在、「雨岳文庫(山口家住宅)」は毎週日曜日を中心に一般公開され、案内付きで見学することができます。また、季節ごとの特別展や古文書講読会、文化財ウォークなどのイベントも開かれ、地域の人々と訪問者を結ぶ拠点となっています。

古き良き時代の建築美と、そこで紡がれてきた人々の営みが今も静かに息づく「雨岳文庫」。大山を望む里山のおだやかな時間の中で、その歴史に思いをはせてみてはいかがでしょうか。


花と緑にあふれた、ゆったりとした雰囲気の中で自家製スイーツを堪能できるカフェ「ノクターナル」

「雨岳文庫」から丹沢の山並みを眺めつつ15分ほど歩くと、ウッディーな外観が映える一軒のカフェが姿を現します。店の名は「ノクターナル」。占星術で“夜”を意味する言葉だと、店主の芹川さんが教えてくれました。かつて占星術好きの友人から耳にしたその響きが心に残り、店名を決める際にふと思い出して名付けたのだそうです。

店舗脇のテラス席は、ペットとともにゆったり過ごせる場所を、との思いから設けられました。芹川さん自身も愛犬家。「ノクターナル」のある上粕屋周辺には、犬同伴で利用できる店が意外と少ないといいます。そのため、散歩の途中に立ち寄れる一軒として親しまれ、テラスでくつろぐ飼い主とワンちゃんの姿は、今ではすっかりこの店の日常風景になっています。

店先やテラスは、手入れの行き届いた鉢植えの数々が彩ります。駐車場の周囲にも四季の移ろいを感じさせる植栽が施され、敷地全体が広々とした庭のような趣を漂わせています。多彩な植物がいきいきと茂り、カフェを訪れる人たちの心を和ませてくれます。

大きな窓からやわらかな陽光がたっぷりと差し込む店内は、思わず深呼吸したくなるような開放感に満ちています。目を引くのは、カウンター前で大きく葉を広げるフィカス・ウンベラータ。まるでこの空間のシンボルツリーのような存在です。足元にはサンスベリアやポインセチアの鉢も並び、眺めているだけで自然と頬がゆるみます。

店内のあちこちに配された鉢植えは、植物が大好きだという芹川さんのお母さまが日々手入れされているもの。丁寧に育てられたインテリアグリーンが、空間にやさしいアクセントを添えています。窓越しに望む大山の稜線とも相まって、ここには日常のせわしなさとは少し距離を置いた、穏やかな時間が流れています。

ランチメニューの調理を担うのは、東京にある洋食店で腕を振るってきたお父さま。ホールを切り盛りする芹川さんは、イタリアンの店で長年経験を重ねてきました。忙しいときにはふたりで厨房に立ち、息を合わせます。異なるジャンルで培った技が自然に溶け合い、この店ならではの味わいを形づくっています。

スイーツ作りは芹川さんの担当。とくに人気が高いのが「ニューヨークチーズケーキ」です。フォークを入れた瞬間、なめらかな質感が伝わってきます。口に運ぶと、クリームチーズのコクがふわりと広がり、続いてきりりとした酸味が立ち上がり、すっきりとした後味が印象的です。ひと口ごとに味わいの輪郭が感じられ、気づけばもう一口と手が伸びてしまいます。コーヒーや紅茶といったあたたかいドリンクとも好相性。静かな時間のなかでゆっくり楽しみたい、大人のためのチーズケーキです。

ほろりとやさしくほどける「ガトーショコラ」も、定番メニューのひとつです。しっとりとした口あたりながら重たさはなく、甘さも控えめ。窓の向こうの緑を眺めながらゆっくり味わいたくなる、やさしい余韻の一品です。

そして、仕込みから完成まで1週間を要するというシロップで作るレモネードは、芹川さんイチオシのメニューです。甘さだけに頼らない奥行きがあり、さわやかに喉を潤します。追いかけてくるほのかな苦みも絶妙です。

芹川さんによると、地域のお客さまは、どこかあたたかい雰囲気があるとのことです。常連のお客さまからはメニューへのリクエストやちょっとした相談が寄せられることもあり、できることには柔軟に応えているそうです。ただ、「無理をしないこと」も大切にして自分が心地よく続けられるペースで、誠実に店と向き合う。その姿勢が、この店の雰囲気の良さにつながっているのかもしれません。

伊勢原で、ふと一息つきたくなったら「ノクターナル」を訪ねてみるのはいかがでしょうか。テラスで風を感じながら、レモネードをひと口。そんな午後を思い描くだけで、少し肩の力が抜けていく気がします。

※掲載情報は取材日時点(2026年2月)のものです。


記事のスポット情報

INFORMATION

雨岳文庫

江戸末期に建てられた国登録有形文化財「山口家住宅」と、約2万点におよぶ歴史資料(山口家文書)を有する歴史文化施設です。広い土間を備えた1階の座敷や、精巧な細工が美しい数寄屋造りの2階座敷など、部屋ごとに趣の異なる空間が広がり、往時の暮らしや美意識に触れることができます。建物の脇には梅林や茶畑が広がり、2月には梅の花が咲き誇る風景が訪れる人を迎えます。ひな飾りや巨大鯉のぼりの展示、茶摘み体験など、季節ごとに趣向を凝らした催しも開かれ、訪れるたびに新たな風景と出会える場所です。

INFORMATION

ノクターナル

伊勢原の住宅地に佇む、丹沢の山並みが一望できるカフェです。ペット同伴OKのテラス席もあり、愛犬とのひとときを楽しみに訪れる人も少なくありません。店内には観葉植物や花の鉢植えが彩りを添え、やわらかな空気が漂います。ランチメニューのほか、店内で焼き上げる各種ケーキや1週間かけて仕込む自家製レモネードなど、くつろぎのティータイムにぴったりのメニューが充実しています。