大山の歴史
大山は願いを叶える山でした。
大山は、ただそこに在る山にあらず。いつの時代も人と強いつながりを紡いできた山でした。均整のとれたピラミッド型のフォルムはもちろん、地理上の位置関係から、あたかも富士山を従えているかのように見え、関東一円どこからもその雄大な姿を望むことができる…万葉集でこの地方を象徴する山として「相模峯」と詠まれたように、この国の人々の目に神秘に満ちた特別な山として映ったのはごく自然のことと言えるでしょう。古来日本人は、自然の持つ力強さを敬い、人間に災いとなる天災さえも神の怒りによるものと信じてきました。山はその神が鎮まり、安らぐところとして敬まわれ、遥かに拝む対象でしたが、まさにその山として選ばれたのが大山でした。特異な存在感を放つ大山は、相模湾の水蒸気により常に山上に雨雲をたたえていたため、別名「雨降山(あめふりやま)」転じて「阿夫利山(あふりやま)」などと呼ばれ、農民たちは作物の豊作・凶作の生命線となる水の重要性から、大山に雨乞いの祈りを捧げるようになります。また漁師たちからは羅針盤をつとめる海洋の守り神、さらには大漁の神として信仰を集めました。特別な山となった大山の頂にあった巨石は御神体「石尊大権現(せきそんだいごんげん)」となり、石尊信仰と呼ばれる山岳信仰がこうして誕生したのです。大山山頂には、縄文時代の祭祀跡や土器などが発見されており、少なくともこの頃から人々の崇敬の対象であったことがうかがえます。
すべての道は
大山に通ずる
山の前面が開けた平野で遮るものがなく、遠くは房総半島の上総や安房、伊豆大島からもその雄大な姿を望めた大山。ゆえに、江戸はもちろん、広範囲に渡る多くの人々が「いざ大山へ」とその心を奮わせました。その証拠として、大山へと続く道「大山道」は、関東一円に及んでおり、参詣の人々でごった返し大いに繁栄。大山道には、主に8つのルートがあり、とりわけ東海道と四ッ谷(現在の藤沢市辻堂付近)で接続する「田村通り大山道」は、風光明媚な江の島へのアクセスも良いため、メインルートとして賑わいを見せました。東海道を通って、大山へ向かう江戸っ子たち、そして彼らが眺めたであろう大山の雄姿は、数多くの浮世絵に描かれ、往時の賑わいを語りかけてくれます。
皆さんにも馴染み深いあの道や街も、実は大山と深い関係があります。大山道の1つ「青山通り大山道」は、「ニーヨンロク」の通称で知られる現在の国道246号線。神田明神に参ってから赤坂、三軒茶屋、二子の渡し(二子玉川)、長津田、伊勢原を行く、約18里(70km)の道のり。渋谷道玄坂や三軒茶屋、代々木、川崎など、国道246号線沿いには、現在も大山街道に縁のある石碑や石仏が数多く存在しています。また青山通り大山道の道中には、参詣に向かう人々が一休みするための3軒の茶屋がありました。もうお分かりでしょうか。これが、三軒茶屋の地名の由縁。あなたの身近にも、確かに大山は息づいているのです。
箱根の関所を超える必要がなく、富士や伊勢よりも気軽に参詣できた大山。しかし、人気を呼んだのは単に立地に依るものだけではありませんでした。せっかくの旅。大山へ詣った後、そのまま帰路につくのは名残惜しい…どの時代の人も想いは同じです。参詣後は、ほど近い風光明媚な江の島や鎌倉、金沢八景などで「精進落とし」と称し、宴を愉しんでから帰るのが人気の観光コースに。特に江の島は女神「弁財天」の存在から、男神である大山だけを参拝することを忌む俗言が宣伝され、双方への参拝が流行。浮世絵に大山講中が江の島へ向かう場面が多く描かれているのもそれゆえのことです。
武将から庶民たちまで幅広く親しまれた大山ですが、ある特定の職を持つ人々の参詣が多く見られたのも特徴でした。その職業とは、火消しや鳶、大工、刀鍛冶といった粋を重んじた職人たち…雨降山の名や山頂の「石尊大権現」に因んで、水や石に由縁深い職を生業とする人々が縁を担ぎ、承福除災を願い訪れました。大工や鳶、火消したちは、高い所に登ることが多く、いつも遥か遠くに見える大山に特別な感情を抱いていたとも言われています。さらに興味深いのが、集金人の来る時期を狙い大山に参詣して借金の支払いを逃れる者、博打の勝負に勝てるようにと参詣する者もいたようで、こんな不心得な者たちを受け入れた懐の深さも大山の特徴と言えます。
江戸時代、大山詣を描いた浮世絵には、歌舞伎役者が鳶や火消し等に扮し、数多く登場します。当時庶民の人気を二分していた大山詣と歌舞伎の組み合わせは、浮世絵の題材として好適だったゆえと伝えられていますが、こうした縁もあり、当時の大山は、「芸能にご利益がある」とされ、芸能関係の人々が参拝に。特に1年で最も賑わう夏には、多くの芝居小屋が立ち並んだと言います。
古くから篤く信仰されてきた大山は、江戸時代、1つの転機を迎えます。大山へと参詣に向かう庶民たちの急増です。1年間に大山を訪れた人は、江戸の人口が100万人の時代、1/5にあたる約20万人にも達し、その隆盛を感じていただけるでしょう。なにゆえの加熱ぶりか?江戸時代の庶民は、観光旅行が許されていませんでした。しかし、参詣に行くと言えば、国境を越える通行手形も簡単に手に入れられ、伊勢詣や富士詣など寺社参詣を兼ねた物見遊山の旅が大流行したのです。なかでも江戸の町から2~3日の距離にあり、難所である箱根の関所を超える必要がない大山は気軽に参拝できることから、絶好の行楽地として愛されました。とはいえ今と異なり、1人で遠出することは経済的にも厳しい時代。庶民たちは、近所同士あるいは職業同士で組織「講」を作り、費用を出し合い、団体で大山に詣りました。このグループは総称して「大山講」と呼ばれ、まさに現代で言うところの団体ツアー、その先駆けと言ってもいいでしょう。現在でも多くの講が現存しており、主に夏の開山時期にお揃いの行衣をまとった大山講の人々の姿を見ることができます。
大山阿夫利神社
東にも伊勢がありました。
信仰の山として、古代から人々の心の拠り所となってきた大山。その懐には、1つの由緒ある神社が鎮座しています。大山阿夫利神社。さかのぼること、実に二千二百余年。人皇第10代崇神天皇の頃の創建と伝えられ、関東総鎮護の霊山として崇敬を集めてきました。ともに大山祗大神が祀られ、「宝鏡(ほうきょう)」が安置され、所在する町は伊勢市と伊勢原市…かの伊勢神宮とも共通点が多いことも興味深い事実と言えるでしょう。主祭神を祀る本社(大山阿夫利神社上社)は山頂ですが、標高約700mの中腹にある下社は、ケーブルカーの駅に隣接しており、気軽に訪れることができます。
大山阿夫利神社に祀られる神々
- 大山祗大神
(おおやまつみのおおかみ) - 山の神・水の神として、また大山が航行する船の目印となったことから産業・海運の神としても信仰。別名、酒解神とも呼ばれ、酒造の祖神としても信仰されています。
- 高龗神
(たかおかみのかみ) - 日本書紀に記されている水神様。古来より祈雨・止雨の神として信仰されており、大山では小天狗とも称されています。
- 大雷神
(おおいかずちのかみ) - 日本書紀に記されている雷の神様。古来より火災・盗難除けの神として信仰されており、大山では大天狗とも称されています。
大山寺
東大寺、唐招堤寺と
同じ時代に生まれたお寺です。
ケーブルカーでがたんごとん。最初の駅で下車すれば、奈良東大寺の開山で名高い良弁僧正(ろうべんそうじょう)が開基した雨降山大山寺があなたを迎えます。創建755年。通称「大山のお不動さん」。関東三大不動の1つに数えられる古刹です。大山寺は幾つかの変遷を経て、鎌倉時代には衰退期を迎え荒廃していましたが、1264年願行上人(がんぎょうしょうにん)によって伽藍などが再興。この時に鋳造された国の重要文化財・鉄造(くろがね)不動明王をはじめとする三尊像が現存し、8の付く日に開帳されています。紅葉の名所としても名高く、本堂前の石段を覆う紅葉が目を楽しませてくれます。
1つの山に寺と神社がある謎
古くから、神仏一体となった信仰が形成されてきた大山。しかし、明治元年に神仏分離令が出されると、神社と寺は分離され、石尊大権現は「大山阿夫利神社」に社号復元。山頂の石尊社は大山阿夫利神社上社、中腹の旧大山寺跡に新たに拝殿が建てられ大山阿夫利神社下社となり、大山寺は現在の位置に移され、今に至ります。
大山とうふ
今も昔も、大山の味です。
旅の醍醐味。それは、今も昔も変わらず「食」ではないでしょうか。大山では江戸時代から、とうふが親しまれ、講中の人々は旅の疲れを癒しながら、当時はまだ珍しい絹どうふの優しい味わいに舌鼓を打ちました。しかし、不思議なことに大山では土質の関係から大豆栽培が行われていません。では、何故とうふが作られるようになったのか?それは、先導師たちが配札や祈祷などを行った謝礼として大豆を受け取り、大山に多く集まったためと一説では言われています。加えて、製造と保存に適した丹沢山系から流れる良質な水、そして修験者や僧侶による精進料理の下地があったこともあり、「大山の名物=とうふ」という図式ができあがったのです。その伝統は今も受け継がれており、工夫を凝らしたオリジナルのとうふ料理やスイーツを、立ち並ぶ宿坊などで宿泊せずとも気軽に堪能できます。
大山こま
300年以上前の
子どもたちにも人気でした。
大山の参道を歩くと、土産物店が立ち並び、さまざまな名物が私たちの目を楽しませてくれます。そのなかでもひときわ目をひくのが、鮮やかな縞模様が象徴的な「こま」です。豊かな森林を持つ大山には元来、木地師(きじし)・木挽師(こびきし)と言われる木工製品を製作する人々がおり、ミズキなどの木を巧みに削り、赤、青、紫の絵付けで仕上げた「大山こま」は手軽な子供たちへの土産物として人気を博しました。地元では、「人生がうまく回る」「知恵が回る」「お金の回りがよくなる」という意味から、縁起物としても親しまれています。大山にはその他にも、往時から参詣する人々に愛されてきた銘菓やキャラブキに代表される山菜の佃煮、大山の名水で仕込まれた地酒など、バラエティに富んだ土産物が数多くあり、選ぶのにも一苦労。時間に余裕を持った計画的な帰り路をおすすめします。
大山の習慣
寄ってらっしゃい、
見てらっしゃい。
ご先祖様も体験した
不思議、不可思議な習わしたち。
「先導師」 ツアコンの先駆け
大山を訪れると「先導師◯◯◯」という看板をたびたび目にします。聞き慣れない先導師という言葉ですが、宿坊または宿坊の主人を指し、文字通り参詣者を大山阿夫利神社まで導く神職のこと。参詣の勧誘や宿の提供、寺社への道案内などを主な仕事とし、今でいうツアーコンダクターと言ったところでしょうか。大山詣が大流行した江戸時代には、160名以上が存在したという先導師は、当時「御師(おし)」と呼ばれ、そのルーツは大山の修験者(山伏)たちと言われています。現在も山麓には、独立した宗教法人として神殿を持つ40軒以上の宿坊が並び、参詣者は登拝前日に宿泊。翌朝、宿坊内の神殿で登拝前のお祓いを受けるのが慣習となっています。
A|「板まねき」もてなしの心は
昔も同じです
宿坊の門前に記され並ぶ不可思議な名前の数々。何かと思われる方も多いでしょう。これは、「板まねき」と呼ばれるもの。かつて宿坊の門前には、講名を染め上げた布製の手ぬぐいのようなものが掲げられていました。講をまねき入れる歓迎の気持ちを意味し、各講もこれを目印としました。このまねきを板に彫った木製のものが板まねきで、軒先や宿坊内の長押などに飾られ、今もその姿を留めています。
B,C「納太刀」源頼朝が始めた縁担ぎ
大山詣を象徴する風習、1つ挙げるならこの「納太刀」ではないでしょうか。かつて源頼朝が天下泰平、武運長久を祈願し太刀を奉納したのが始まりとされ、江戸時代になると庶民にも広まり、多くの参詣者が「奉納大山石尊大権現」と記した木製の太刀を奉納するようになりました。その木太刀は持ち帰られ、1年間の守護として家や地域の神棚に奉斎。翌年の参拝時に新旧のそれを交替したと言います。また浮世絵では、巨大な木太刀が描かれていますが、これは決して大げさにしたものではありません。多くは長さ一間(いっけん)(約1.8m)でしたが、次第に立派で「粋」な太刀を納めたいとの世相が広がり、大きさや造形に力を入れる者が増加。7m程もある木太刀が納められたこともあったようです。現在では、古き良きこの風習を復活させる活動も行われています。
B「梵天」ご利益を地域におすそわけ
大山詣の様子がイキイキと描かれた浮世絵を見ていると、講中の人々が見慣れない何かを手にしていることに気付きます。木の棒に七夕の短冊のようなモノが無数に飾られた何か…これは梵天と呼ばれるもの。大山への登拝前に人々はこの梵天を担いで禊(みそぎ)の儀式「水垢離(みずごり)」を行い、濡れた梵天のお札を市中に配り、その後大山へと向かいました。梵天は大山阿夫利神社に奉納された後、地元に持ち帰られ、地域の守護神となりました。遥か昔の風習と思いきや、実はこの梵天、今もとある行事の際に見ることができます。それは、新しい家を建てる際に行われる上棟式。新屋の安全を祈願する際の飾りとして、梵天は欠かせない役割を果たしています。
D「水垢離」汚れたまま神仏には会えません
江戸の昔、大山詣の人々は、登拝前にあることをしました。それが水垢離、すなわち禊ぎの儀式です。人々は瀧で「懺悔懺悔~」と唱えながら心身を浄めた後、白衣を纏い、山頂の石尊大権現を目指したのが大山の夏の風物詩でした。今も大山には、水垢離の名残を感じさせる元瀧(もとだき)、追分瀧(おいわけだき)、良弁瀧(ろうべんだき)、愛宕瀧(あたごだき)、大瀧(おおだき)という5つの瀧が現存。瀧の規模は縮小されましたが、かつては大勢の人が一度に入れるほど、大きなものでした。また、江戸を出発する際にも水垢離は行われていたようで、その様子は浮世絵や短歌などからうかがい知ることができます。
E「玉垣」大山へ詣った証を歴史に刻め
大山の参道を歩けば、どこか感じるタイムスリップしたかのような錯覚…そうした雰囲気を作り出す要因の1つが、宿坊の敷地を囲うように立ち並ぶ石柱の存在です。これは「玉垣」と呼ばれる石製の垣根で、各地から訪れた講の寄進により建造されたもの。玉垣をよく見ると、「◯◯講」といった講名や奉納者の名が彫られ、文字は赤などで彩色されているのが特徴です。なかには、「め組」「は組」といった火消したちの講名も見られ、玉垣に刻まれた名に往時を馳せるのも大山の楽しみ方と言えるでしょう。
F「配札」先導師、走る
宿泊の準備や道案内以上に、先導師の大切な役割とされたもの。それが、布教活動でした。正月や秋など年に数回、先導師たちは自らが受け持つ各地の信者を訪ね歩き、大山阿夫利神社の御札などを配布。加持祈祷を行う代わりに、初穂料(当時は穀物)をいただくことで、各檀家とのつながりをより強めていきました。まさに秋から冬にかけて、先導師は各地域を走り回ったのです。これが、陰暦の12月の呼称「師走」の語源になったと一説では言われています。
G,H「大山土産」山の恵みと海の恵み
娯楽としての側面も持っていた大山詣は、帰りを待つ家族へのお土産も大切なものでした。各地には大山土産の記録が残っており、こまや竹細工、そして栗やキャラブキ、山椒など山の恵みを生かしたものが多く見られました。また大山詣の帰路を描いた浮世絵には、火消しの纏(まとい)を模倣したとされる謎の道具がたびたび登場しており、いまだ詳細は明らかにされていませんが、これも大山土産の定番だったようです。さらに1つ興味深いのが、大山土産として何故か、貝細工やスルメといった海の土産物も多く見られたということ。もうお分かりの方も多いでしょう。そう、江の島や金沢八景などに立ち寄ったという紛れもない事実をお土産が教えてくれているのです。
「大山詣の正装」
ファッションも独特でした
山ガールの出現など、昨今は山へと向かうファッションスタイルにもこだわる時代となりましたが、大山詣に向かう人々の出で立ちも実に個性的なものでした。半纏または白の行衣をさらりと羽織り、頭には鉢巻き。手には、先述した梵天と木太刀。法螺貝の音に合わせて、「お山は晴天、六根清浄」「懺悔懺悔、六根清浄」と掛け念仏を唱えながら出発したと伝えられています。
「十五参り」大山詣は大人の証
大山詣にまつわる慣習が各地で生まれましたが、現在の成人に当たる15歳、元服に当たる年のお盆の時期に、大山へ参詣する「十五参り」もその1つ。大山へ詣らないと、一人前として認められなかったという記録が残っており、立派に成し遂げると、集落の中での役割分担を負うことや、責任が認められたと言います。大山は、大人への門出を祝う立身出世の山でもあったようです。
企画・コピーライティング:
株式会社日本デザインセンター
写真: 砺波周平